こんにちは、内科医で歴女の馬渕まりです。歴女+女医で『歴女医』なんて名乗ることもあります。歴史好きの患者さんから「あの武将と同じ病気で、親近感が湧いたよ」と言われたことをきっかけに、歴史上の偉人の病気を調べ始めたところ、「この人がもっと健康で長生きしていれば……」「この出来事には病気が影響しているのでは?」などと想像が広がり、「これは面白い!」と歴史が好きになりました。
歴史上の偉人も私たちと同じ人間なので、病気になることだってあります。現代医学の視点で歴史を見ると、今までとは違った面白さが見えてくるのです。
織田信長といえば、戦国時代でも一二を争う人気の武将ではないでしょうか。桶狭間で今川義元を討ち果たし、尾張を統一。そこから天下統一に向けてもの凄い勢いで領地を拡大するも、夢半ばにして家臣・明智光秀の謀反に倒れる。まさに激動の人生です。
研究が進むにつれて、以前に考えられていたような冷酷無比な人物像は否定されつつありますが、比叡山の焼き討ちや実弟・信行の殺害といった過激なエピソードからは、激情家の一面がうかがえます。
信長が弟を殺害した理由は、弟の裏切りが主因と言われているものの、私は母・土田御前が信長を疎んじ、信行を溺愛したことも少なからず影響しているのでないかと推測しています。なぜなら、信長には乳母の乳首を噛みきるほどの癇癪(かんしゃく)持ちだったというエピソードが残っているのですが、歴女医から見れば、そんな信長の性格形成には、とあるホルモンが影響していると考えられるからです。
そのホルモンとは、ずばり『オキシトシン』です。
オキシトシンは、脳下垂体から出るホルモンで、乳汁の分泌を促進する働きをします。授乳だけでなく、赤ちゃんとの肌の触れ合いや、匂いを嗅ぐ、泣き声を聞くなどによっても分泌され、また恋人とのイチャイチャでも分泌されるため、『愛情ホルモン』と呼ばれることもあります。
オキシトシンは、ホルモンとしての役割以外に神経伝達物質としての役割もあり、母性を高めます。そしてオキシトシンは子どもにも作用し、母親への警戒心を薄め、信頼させる効果があるのです。ラットの実験では、幼少期に母親と引き離された子どもは脳内のオキシトシン濃度が顕著に低下し、成長後に協調性が無くなったり攻撃性が増したりする、という結果が報告されています。
それでは、信長の場合はどうだったのでしょうか。信長と信行の母は同じ土田御前ですが、嫡男である信長は、武家の慣例に従い乳母に預けられました。乳首を噛み切るような子なので乳母は次々と代わり、池田恒興の母(養徳院)が乳母となってからは落ち着いたようですが、それまでは愛情に乏しい状態だったと考えられます。
一方、信長の2年後に生まれた信行は、織田家の跡取りとして厳しく育てられることもなく、母親と過ごす時間が長かった可能性があります。もしかすると、母親自ら乳を与えていたかもしれません。そうなると、オキシトシンの影響で、母親は「私の可愛い信行ちゃん」状態になります。一方の信長は、乳母からも疎んじられ、母は弟を可愛がり……と愛情不足のストレスフル。ストレスはオキシトシンの分泌を妨げますので、哀れ信長はさらにオキシトシン不足に……。
ここで、先ほどご紹介した、幼少期にオキシトシン不足になったラットを思い出してみてください。周りとの協調性不足や攻撃性って、なんとなく信長像に当てはまるところがありませんか?小さい頃に、もっと母親とスキンシップをとっていたら、情緒が安定して明智光秀に冷たく当たることもなく、歴史は変わったのかもしれませんね。
続いて、信長に対して本能寺の変で謀反を起こした『明智光秀』についてお話ししましょう。光秀が謀反を起こした理由は諸説ありますが、山崎の戦いでアッサリ討ち死にしたため、真相は闇の中です。若い頃の経歴も資料が少なくあやふやですが、それ故に歴史好きの想像力を刺激するんですよね。そんな光秀ですが、信長へ謀反を起こした理由の1つに『近視』が絡んでいる、という面白い話があります。
光秀は清和源氏の系統にあたる土岐氏の支流、明智氏の一族と言われています。通説では、斎藤道三に仕えて、その死後はしばらく浪人し、朝倉義景に10年ほど仕えたとのこと。義景への士官は鉄砲の腕を買われたようで、「30センチの的に45.5メートルの距離から命中させた」話や、「100発撃ったら68発が真ん中部分(黒星)に当たり、残り32発も的に当たっていた」などの記録が残っています。当時の鉄砲の性能を考えると、これは驚異的な腕前です。その後光秀は、足利義昭が朝倉義景を頼ってきた縁で将軍に仕えることとなり、織田家との仲介役に抜擢され、信長の家臣となります。
若い頃は、遠くの的を射抜くことのできる良い視力の持ち主だった光秀も、中年以降は『近視』だったという説があります。医師で作家の篠田達明先生は、光秀の肖像画で目が細く描かれている点に注目しました。近視の人は、遠くを見るときに目を細めますよね。また、光秀が50歳を過ぎてから書いた手紙の筆跡が見事なことから、近くのものは良く見える近視であった可能性を指摘しています。
光秀の人生の話に戻りましょう。実は光秀、信長の元で凄いスピードで出世しています。士官して僅か2年で城持ちを許され、天正8年(1580年)には、34万石の所領持ちに。信長が光秀を絶賛した話もあり、小説などでよく使われる信長への怨恨説は、あまり根拠がないとも言われています。
しかし、ココはあえて「光秀は近眼のため、信長の表情が読めなかった」「近眼で目を細めるため、信長からガンをとばしているように見えた」→「信長の不興を買って冷遇」→「謀反へ」と考えてみましょう。近眼が謀反の一因であるなら、『良いメガネ』があれば歴史は変わったのかもしれませんね。
余談になりますが、光秀は愛妻家としても知られています。嫁入り前に疱瘡(天然痘)にかかってしまった妻・煕子(ひろこ)の痘痕(あばた)を気にせず結婚し、彼女が死ぬまで側室を持ちませんでした。
痘痕があっても煕子は美人だったようで、「明智光秀の妻は、天下一の美女である」との噂を聞いた信長が煕子登城を命じ、物陰から現れいきなり抱きついたという逸話もあります。この時、信長は驚いた煕子に扇子でこっぴどく叩かれたようですが、もしかして光秀の謀反は、これを根に持って……?
時代は戻ってしまいますが、現代で問題になっている『生活習慣病』のお話もさせてください。平安時代の貴族として栄華を極めた『藤原道長』のお話です。
実は道長、若い頃から出世コースに乗っていたわけではありません。父、藤原兼家は摂政・関白の座についた有力者でしたが、道長は五男。五男が跡継ぎになれる可能性はほぼなく、道長は兄の影に隠れる存在でした。
しかし、道長が29歳の時に転機が訪れました。父の跡を継いで関白の座にあった長兄・道隆が病死、その7日後には次兄の道兼も病死し、道長にチャンスが回って来たのです。
その後、甥の伊周との争いに勝ち貴族の頂点に立った道長は、娘を天皇に嫁がせ、生まれた孫を天皇に。そうして天皇の外戚として権力を固めた道長は、
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
と大満足で和歌を詠んだのでした。
しかし、栄華を極めた道長は、ある病気に苦しめられていたのです。それは、栄華故の病気とも言えるかもしれません……その病気は、ずばり『糖尿病』です。
糖尿病は、すい臓から出るインスリンの作用不足により、血糖値が高くなる病気です。高血糖が長く続くと血管が傷み、様々な合併症が出てきます。このうち微小血管障害によっておこる「神経障害」「網膜症」「腎症」は糖尿病に特有の症状であり、『糖尿病の3大合併症』と呼ばれています。
文献の中には、道長が糖尿病だったことがうかがえる記述があります。同時代の貴族が書いた『小右記』の中に、道長は51歳頃から「口が渇きやたらと水を飲むようになった」と書かれていて、これは糖尿病、特に血糖が高い場合に見られる症状と一致します。『小右記』の作者は、道長について遠慮なく書いており、ずばり『飲水病(糖尿病)』と病名も記しております。
道長自身が33歳から56歳にかけて書いた『御堂関白記』にも、糖尿病の合併症を疑わせる記述があります。寛仁3年(1019年)、道長が53歳頃の日記に「心神常の如し、而し目尚見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物のみ之を見る」と、視力の低下を嘆く記述があり、糖尿病性網膜症ないし、糖尿病による白内障の悪化が疑われます。糖尿病は遺伝的要素も強く、家族歴も重要です。前述の長兄・道隆、甥の伊周、そして伯父の伊尹(これただ)も、糖尿病であったと伝わっています。
道長は、長男の藤原頼通に自身の官職を譲り、その翌年に62歳で亡くなっています。当時としては長寿と言える年齢ですが、生活習慣に気を付けてもっと長生きをしていれば、藤原氏の栄華がさらに続いたかもしれませんね。
事実は小説よりも奇なりという言葉がありますが、日本史のエピソード自体、ドラマのように面白いものです。また旅行に行く際、観光地の歴史的背景を知っていると、楽しさが倍増します。
例えば、伊賀を例に挙げてみましょう。忍者の里ということは、皆さまご存じでしょう。忍者屋敷でショーを楽しむのも良いですが、伊賀国一揆と織田氏が戦った「天正伊賀の乱」を知っていれば、史跡巡りの楽しみが増えます。「本能寺の変」後に、徳川家康が三河に帰る際、人目を避けて険しい山道を逃げた「伊賀越え」もありますね。
近年は、歴史ブームでイベントも多く開催されており、催しなどを通じて歴史好きの友達ができるのも楽しいですよ。私も、歴史イベントで知り合った友人が多くいて、歴女同士で史跡巡りやお茶会などをエンジョイしています。
また年配の方、特に男性は歴史好きが多いため、コミュニケーションツールにもなります。患者さんの中にも歴史ファンがたくさんいて、診察に歴史の話を盛り込むことで、関係が良くなることもしばしば。
女医である私が、医学の観点から歴史に興味を持ったように、大人の学びは自分の興味があることから広げていくと、とても楽しいですし、実生活にも役立つのでおすすめですよ。
大人の学び直し「日本史」講座へのリンク
※こちらの記事でご紹介したエピソードの中には、諸説あるものもございます。
※参考文献
モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ― 篠田達明 新潮新書
戦国武将を診る 早川智 朝日新聞出版