そもそも「無心」とは、脳がどのような状態になっている時のことを言うのでしょうか。
「まず大前提として『無心』という言葉ですが、なにも考えていないという意味ではありません。ボーっとしている時や寝ている間など自分では意識していない時間にも、脳は活発に活動しています。なぜなら、脳は常に情報が入っていないとダメなようにできているから。脳が完全に活動しない時間があると、とっさの事態に反応できず危機を回避できなくなってしまいます。
いつでもすぐにスイッチが入るよう常に情報を取り入れ、待機状態を維持しているため、なにも活動していない無の状態というのは脳には存在しないのです。そのため『無心』とは一般的には『なにか一つのことに集中している状態』という意味で使われるケースが多いのではないでしょうか」(米山公啓先生)
なるほど!では集中している時は、脳はどのような働きをしているのでしょう。
「脳科学の分野では、集中している時でも、脳を常に広く使っているというのが通説です。ここでは、脳の中でも大脳の表面を覆う大脳皮質について話しますが、大脳皮質は前頭葉・頭頂葉・後頭葉・側頭葉の4つに分けられ、それぞれの部位によって働きが異なります(※下図①参照)。
大人のぬり絵に当てはめてみましょう。どの色を使うかを考え、形に沿って色を塗るといった、全体的なプランを指先に指令する『前頭葉』。構図を考え、図形や空間を認識する『頭頂葉』。絵を見る、完成度をチェックする『後頭葉』。見覚えのある風景や花の色などを、過去の記憶と結びつけながら塗っていれば『側頭葉』の記憶の中枢も刺激します。
やり方にもよるのですが、ぬり絵に集中している間は、脳のどこか一部分を使っているのではなく全体的に広範囲に脳を刺激している状態だと言えます」(米山公啓先生)
(図①)
集中して取り組むことで、精神的にはどのような効果が得られるのでしょうか。
「それについては自律神経が大きくかかわっています。大脳皮質で受けた刺激は、自律神経をコントロールする視床下部に影響を与えます(※下図②参照)。
自律神経は呼吸や血流・内臓の働きを無意識下で調整する神経で、『交感神経』と『副交感神経』と呼ばれる2種類の神経があります。交感神経は緊張と興奮を、副交感神経はリラックスを促します。例えば、仕事では緊張と興奮を促す交感神経の働きが活発化し『交感神経優位の状態』に、寝る時にはリラックスすることで副交感神経の働きが活発になり『副交感神経優位の状態』になります。精神的な安定を保つには、この2つがバランスよく働いて、自律神経の調和が保たれている状態が理想的とされています。
(図②)
忙しく働く人は交感神経が活発化した状態が長いため、いかに副交感神経優位に切り替えるかが大切です。脳は、好きなことに集中して取り組んでいる時に活性化します。そう言うと興奮を促す交感神経優位の状態が続くように思われますが、のめり込み集中して続けるうちに緊張感がなくなり副交感神経が優位になってきます。最初は『よし、やろう!』という緊張から入り、のめり込んでいくにつれて副交感神経が優位になっていくイメージです。結果、緊張が解け精神的に癒されたと感じられるのです。
特にぬり絵は、最初は色や形を考え緊張した状態から始めますが、作業自体は比較的単純なため集中しやすく、早くに緊張が解け副交感神経優位の状態になり、短い時間でも効果を得やすいと考えられます」(米山公啓先生)
つまり、ぬり絵は広く脳を刺激しながら自律神経を整えるのにも効果が期待できるということですね。逆に、自律神経が乱れるとどうなってしまうのでしょうか。
「生活している中で、たまに脳を集中させなければならない、早く活性化しなければいけない場面があると思います。そういう時に頑張れるよう、交感神経が活発になる仕組みになっています。ただし、交感神経が優位になりストレスがかかっている状態がずっと続くと、それを体が治そうと副腎皮質ホルモンが分泌され、長く出続けていると今度は細胞を壊したり、免疫能力が落ちたりして病気になりやすい状態になってしまいます。『ストレスで病気になった』というのは、こういったことが原因だと考えられています。逆に、立ち上がるなどの活動をせず弛緩した状態である副交感神経優位が続くと、脳が素早く働かなくなります。
そこで重要になってくるのは、この2つの神経のONとOFFを、意識的にできる限りコントロールし、リズムを整えること。人間はもともと、昼間は交感神経優位、夜は副交感神経優位になるリズムを持っています。よりリラックス度を上げるためには、交感神経を優位にさせておいて一気に下げる。緊張が高ければ高いほど、緩和された時の落差が大きく、癒しが大きく感じられます。
特に日々仕事でストレスを抱えている方などは、仕事モードとプライベートモードの切り替えスイッチが必要になります。そこで、早くに副交感神経優位の状態へ移行できるスイッチとしてぬり絵を習慣付けてみるとよいでしょう。1時間仕事をして、違うことを考えたい時にぬり絵を集中してやる。仕事モードを切り離し、緊張したあとの緩和を得る手段の一つとして、ぬり絵はおすすめです」(米山公啓先生)
自律神経が整うことで、ほかにも良いことはありますか。
「先に述べたリラックス・ストレス軽減のほかには、副交感神経優位による弛緩効果で、末梢の血管が拡張し血流が良くなり、冷え性の改善も見込めます。また、自律神経には消化管の働きを調整する役割もあるため、バランスが整うことで消化が良くなり、便通や胃の調子が良くなるとも言われています」(米山公啓先生)
取り組むタイミングとして、効果が得やすいのはいつでしょうか。
「癒しを得るためであれば、仕事などの緊張した状態から離れ、リラックスしやすい眠る前がおすすめです。また、『眠れない。寝つきが悪い。寝起きがだるい。』これら睡眠に関する悩みの多くは、交感神経優位の状態にあることが主な要因とされています。より質の良い睡眠を取るためには、寝る前に副交感神経優位にすることはとても重要。ぬり絵は、その切り替えに活用できます。ぬり絵をすることで得られる癒しだけでなく、良質な睡眠へとつながることで、よりストレスを軽減する効果が期待できます」(米山公啓先生)
家で寝る前に取り組む時の注意点などはありますか。
「ポイントとしては時間を決めること。寝る前に5分くらいやるのがベストです。それ以上やってしまうと、楽しくなって交感神経が優位に立ってしまい、興奮状態になって逆に眠れなくなってしまいます。慣れてくればコツがつかめて、すぐに集中できるようになり、より短い時間で副交感神経優位になれるでしょう。また、眠る前の習慣として取り入れることで1~2分でもやれば寝られるようにもなるはずです。眠くないのに布団に入ってしまうと逆に目が冴えてしまうので、入眠のタイミングを計るためのぬり絵という考え方もよいと思います」(米山公啓先生)
ほかの趣味的活動に比べ、ぬり絵が取り組みやすい理由はなんでしょうか。
「ずばり、簡単に始められること。特別な準備も必要ないですし、もし色鉛筆がなかったとしても、鉛筆の濃淡だけでもぬり絵はできます。例えばスポーツであれば専用の道具が必要ですし、それなりのスペースも必要になってくる。その点、ぬり絵は本と鉛筆さえあればどこでもできるので、すぐにチャレンジすることができます。
そのほかの魅力としては、続けやすいということ。ぬり絵は絵画や彫刻と違い1ページという区切りがあるので『今日はここまでやろう』『このページを1週間で仕上げよう』と目標を定めやすく、完成後には1ページうまく塗れたという達成感が得られます。すでに描かれた絵に色をつけるため、失敗もしにくく仕上がりに対する満足感も得やすい。
達成感が得られると、脳内に幸福感や快感・ポジティブな感情へつながるドーパミンが分泌されます。つまり、快感や気持ち良さを得られるということ。このドーパミンが出た感情の気持ち良さが残っていると、また得たいとなり、次なる意欲が湧いてくる。この繰り返しで、意欲の継続が得られやすいというのは、かなり大きいと思います」(米山公啓先生)
では最後に、これから大人のぬり絵をやろうと思っている方へ、アドバイスをお願いします。
「売れている本だからとか、話題の本だからではなく、自分に合うものを選ぶことが大切です。大人のぬり絵は、和柄や花柄・風景画など絵柄の種類も多く、簡単な枠から非常に細かな模様など難易度もさまざまです。どんな絵だったら楽しく塗れるだろう。長く続けるためには、まずはそこをうまく選ぶことが重要です。1冊目で自分にピッタリのものに出会うのが難しければ、何冊か挑戦してみて、トライ&エラーでじっくり時間をかけて探してみるのもよいと思います。そういったプロセスも楽しめると、なおよいかもしれませんね」(米山公啓先生)
※本稿で説明している脳の機能は一部を抜粋したものであり、すべてを説明するものではありません。