そもそもなぜ人は、人生に窮屈さを感じてしまうのでしょうか?
「まず、なぜ人間には苦という感情が生まれるのかというところからお話しします。禅・仏教では、窮屈という感情も含めて、思い通りにいかないことを『苦』としています。こうしたいという理想と、そうはならないという現実。苦とはそうした理想と現実のズレから生じているのだと考えています。
例を出しましょう。例えば同じ年収400万円のAさんBさんがいたとします。Aさんは現在の年収にとても満足している。一方で、Bさんは年収にとても不満を持っている。同じ状況にありながら、かたや幸せ、かたや不幸せという状況が生まれているわけです。
つまり幸せ・不幸せというのは、年収の額などではなく、自分の思いがどれだけ叶っているかということ。現実の世界がどうというより、自分の心と現実のズレこそが苦の原因であり、人生を窮屈にする原因なのだというのが禅・仏教の考え方なのです」(佐藤隆定さん)
そういったお悩みを持った方が相談にいらっしゃった際、どのようなアドバイスをするのですか?
「理想と現実のズレを解消する方法は2つしかありません。外側を変えるか、内側を変えるか。自分の理想に合うように周りを変えるか、自分自身の心を変えるかということです。ほとんどの人は、外側を変えようとするのですが、これはなかなか変えられるものではありません。
例えば営業目標を達成できるように低めに設定してもらう、ブランド品が欲しい・良い生活がしたいから給与を上げてもらう。それって簡単にできることではありませんよね。外側を変えようとして、変わらない状況が続けば、やがて行き詰まってきます。つまり、自分自身が変わることのほうがはるかに楽なわけです。
大切なのは『これじゃなきゃだめだ』『幸せになれない』と思っていることを、それって本当かな?と疑ってみること。こうしなければいけない。これが常識だから。そういった思い込みや執着を一度手放してみたら、軽やかに生きられるのではないですか。そういったアドバイスをさせていただいています」(佐藤隆定さん)
「放下着」あまり聞きなれない言葉ですが、具体的にはどういった教えなのでしょうか。
「放下とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るという意味の言葉です。『着』という字が入っているので、よく下着を放ると思われる方もいますが、それは間違いです。また『着』という字は、前の言葉(放下)を強調させる助字なので、その字自体に意味はありません。今で言う『!』と同じです。さて、この放下着。この言葉が誕生したのは今から千年以上も前のこと。中国の唐の時代です」(佐藤隆定さん)
「こんなエピソードがあります。ある時、趙州(じょうしゅう)和尚のもとに、一人の修行僧が訪ねて来ます。修行僧は趙州和尚に問いかけます。『長い修行のかいあって、煩悩妄想をすべて捨てることができた。高みに到達することができた今、これから先どう修行したらいいのでしょうか』。そこで趙州和尚は『放下着』と答えました。修行僧は意味が分からず『もう捨てるものがありません。なにを捨てろというのですか』と言うと、趙州和尚は『捨てることができないのなら、自我をかついで去れ』と言い放ちました。
つまりこれ、どういうことかというと、すべてを捨てることができた私を見てくれ!と言わんばかりの修行僧に、その思いすら捨ててしまえという意味で放下着と言ったのです。これが放下着の始まり。放下着とは、すべての執着を捨て去れ、執着を空っぽにしてみろという意味なのです」(佐藤隆定さん)
人間というのは「手放す」「捨てる」という行為が苦手ですよね。
「捨てられないということがいかに自分の負担になっているかということを、ブッダは次のような例えで弟子たちに説明したことがありました。ある時、旅人が川に差しかかりました。とても大きな川で、対岸に渡ることができない。そこで旅人はいかだを作ることで、無事に対岸へと渡ることができました。その時、旅人は次のように思います。このいかだはとても役に立ったから、捨てずに、かついで道を進むことにしよう。
……この話をしたあと、ブッダは弟子たちに問います。『この旅人のいかだに対する対処は適切だったと思うか。きっと誰もそうは思わないだろう』と。いかだをかついで歩けば、すぐに疲れてしまう。つまり、たとえ役立つものであっても、正しいことであっても、執着することでそれが負荷をもたらすものに変わってしまうということ。正しいことでさえ執着するべきでないのに、ましてや正しくないことに執着をしたら、苦しみしか生まれない。だからこそ執着心から離れるように、という教えです」(佐藤隆定さん)
では最後に、この「放下着」という考えは、生活の中でどのように実践できるのでしょうか。
「大前提として覚えておいていただきたいのが、『放下着』とは、誰でも実践すれば幸せになれるというものではありません。世間の価値観があるとして、積極的にその価値観の中で生きていこうと考えている人は、執着心を欲しています。また、社会の中で生きていく上で、目標を達成するためには執着心むき出しでいかなければならない場面も多々あります。そういったことに幸せを感じられる人に、放下着は必要ありません。社会に適応できる人に、この言葉はいらないのです。ではどんな人が、合っているのか」(佐藤隆定さん)
「ずばり、世間の価値観や常識に合わず、生きづらさを感じている人です。例えば、残業続きで疲れが溜まっているが、みんなもやっているからと無理をして頑張っている人。上司からの飲み会の誘いが断れず、ストレスを溜め込んでいる人。思い切って会社を辞めたいけれど、世間体を気にして辞められない人。今は社会に適応している人でも、執着心が持つプラスのエネルギーが、いつからか苦を生むエネルギーに変わっていくというケースもあります。
あとは、高い生活レベルやブランド品といったものへの執着によって、日々の生活が苦しくなっている人などもそうですね。そういった人に対して、放下着という言葉を通して『あなたを追い詰めているその価値観。それは絶対ではないし、それがすべてじゃないですよ』ということを伝えたいのです」(佐藤隆定さん)
もちろん実践するか否かは本人の自由です。禅や仏教は無理に『こうしなさい』と押し付けるようなことは言いません。禅や仏教というのは、いわば行き詰まっている人に対する病院。そして、放下着は処方箋のようなものです。もし、この記事を読んで『実践してみよう』と思えたのであれば、すでに病状回復に向かっています。捨てるという発想ができるようになれば、光が見えます。興味がある人はぜひ、一歩、踏み出してみてはいかがでしょうか」(佐藤隆定さん)