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2015.08.26

話題の朝ドラヒロイン・広岡浅子のモットー「九転十起」(きゅうてんじゅっき)とは?

話題の朝ドラヒロイン・広岡浅子のモットー「九転十起」(きゅうてんじゅっき)とは?

今秋スタートする朝ドラのヒロインのモデル・広岡浅子さん。女性が表舞台で活躍することが稀な明治・大正時代に様々な功績を残した彼女の生涯から、働き方・学び方の精神を紐解いていきます。

  • シゴト

「明治の女傑」と呼ばれたその一生

「明治の女傑」と呼ばれたその一生

広岡浅子(1849-1919)(大同生命保険提供)

誕生~結婚

広岡浅子は幕末時代、京都の豪商・三井家の四女として生まれ、17歳(数え年・以下同様)で大坂の豪商・加島屋(かじまや)の次男・広岡信五郎と結婚します。
少女時代から学ぶことに意欲的だった浅子ですが、当時は、女性だからという理由で十分な教育を受けられず、悔しい思いをしてきました。それが結婚を機に、夫の理解にも支えられ商売を学ぶチャンスを得たのです。

加島屋の立て直しと炭鉱経営

浅子が20歳のとき明治維新が起こり、その動乱のさなかに嫁ぎ先である加島屋の家業が傾いてしまいます。ここで彼女は、男勝りのパワフルさを発揮。坊ちゃん育ちでおっとりしている夫に代わって、加島屋の立て直しに奔走します。
明治19年には筑豊の「潤野炭鉱(うるのたんこう)」(現在の福岡県飯塚市)を買収。炭鉱が断層にふさがれて産出量が伸び悩み、休業を余儀なくされた折にも、浅子は周囲の反対を押し切って再開発に着手。「護身用のピストルを手に、自ら洋装で炭鉱へと乗り込んだ」という勇ましいエピソードも残っています。諦めずに取り組んだ甲斐あって、明治30年に潤野炭鉱の産出量は急増するに至りました。また、明治21年の「加島銀行」設立、明治35年の「大同生命」創業に参画するなど、彼女は次々と事業を起こしました。

女性教育への貢献

こうした数々の経験から浅子は「女性も社会の一員であり、教育が必要」という信念を持ちます。明治34年の日本女子大学校(現在の日本女子大学)設立にあたり、自ら多額の寄付をしたほか、政財界の有力者から協力を取り付けるなど、日本初の女子大学設立に多大な貢献をしました。

座右の銘「九転十起」(きゅうてんじゅっき)に込められた想い

座右の銘「九転十起」(きゅうてんじゅっき)に込められた想い

明治37年、夫・信五郎の死とともに経営の一線から退いた浅子は、以後、社会活動に専念しました。明治42年に乳がんの手術を受けるも、これを克服。そして、大正8年、彼女は71歳でその波乱万丈の生涯に幕を下ろしました。

浅子は、座右の銘を「九転十起(きゅうてんじゅっき)」としていました。「『七転び八起き』を超えてなお、諦めない」 という意味が込められたこの言葉は、彼女の「何があっても立ち向かい続ける生き方」を象徴しています。嫁ぎ先の商売が傾きかける、炭鉱が休業に追い込まれる、大病を患う……。目の前にどんなピンチが立ちふさがる時も決して諦めずに前を向き続けることで、自ら乗り越えてきたのです。

立ち向かい続ける生き方は、成功を引き寄せるもの。日本女子大学校設立も、当時はいまだ根強く残る女性差別という逆境の中、自分の信念を貫き「女性の高等教育を諦めなかった」からこその偉業と言えます。

日々自分を磨き上げる強さを手に入れよう!

日々自分を磨き上げる強さを手に入れよう!

広岡浅子の生き方からは、何事も決して諦めず、目標を達成するまで努力し続ける「強さ」が感じられます。資格取得という目標に向かって努力を続けることも、根本は同じ。苦労があったとしても、高い目標に向かって、決して諦めずに自分を磨き続けることで、彼女のように社会で活躍できる強い女性に近づいていけたら素敵ですね。

 

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