品質の良いベビー・子ども服ブランドとして知られる「ファミリア」の創業者である坂野惇子(ばんの・あつこ)は、1918年(大正7年)、神戸に生を受けました
父の佐々木八十八(ささき・やそはち)は貴族院議員で、後のレナウンとなる繊維卸売会社の創業者。裕福な家庭で何不自由なく育った惇子は、手芸が大好きで、当時としては珍しいフランスの刺繍糸やイギリス製の毛糸、刺繍用の布地などを集める少女でした。
甲南女学校(現在の甲南女子大学)在学中に、スキー場で夫となる坂野通夫(ばんの・みちお)と出会い、結婚。神戸の外国人が多く住む「外国人村」と呼ばれる街を新居として、幸せな新婚生活をスタートし、結婚から2年後には長女を出産しました。
しかし、その幸せは長く続きません。戦争が激しくなり道夫は出征し、神戸の大空襲で自宅は全焼。終戦後、夫の消息もわからない中で、惇子はそれまでのお嬢さんの甘えを捨て、生きていくために仕事を見つけようと戦後の混乱の中、働くことを決心します。
ファミリアの4人の女性創業者
(写真提供:ファミリア)
まもなくして夫・通夫は無事に帰国しましたが、戦後の貧しい生活は続き、惇子は働いて収入を得る道を模索し続けました。「家で育児をしながらできるものを」と洋裁を選び、頼まれた近所のお子さんなどの服を縫う仕事を始めてみたはよいものの、仕立て代を要求する勇気がなく、現金をもらえない日々が続きました。
そこで思いついたのが、独身時代に習った洋裁や手芸を活かし、集めてきたフランスの刺繍糸やイギリスの毛糸を使ったベビー服を作ること。
神戸の外国人村に住んでいた惇子は、外国人専門のベビーナースと話をする中で、既製の日本のベビー衣料品は、赤ちゃんやその家族のことをあまり考えず、例えばおむつは白い特殊織地の正方形のものなど、従来の習慣をもとに作られているものが多いと感じていました。
「同じ仕事をするなら、単なる手芸店ではなく、女性の特徴を生かし、せっかく学んだ進歩的な育児法をもとに、赤ちゃんや子どものためのかわいい良いものを作って売ればどうだろう」との通夫のアドバイスもあり、良心的で「別品(べっぴん)」なベビー服を自分で作って販売していこうと決意したのです。
惇子は女学校時代の友人田村枝津子、その義姉田村光子、近所の友人村井ミヨ子を誘い、自らベビー服を作って、まずは神戸三宮センター街の靴店の片隅に、ささやかなベビーショップをオープン。家庭との両立をしながら仕事をスタートしました。
しかし、4人とも裁縫の心得こそあるものの、それまではごく普通の主婦だったため、経営に関しては素人。最初の利益はなんと「毛糸玉2玉分」だけだったそうです。まったく経営感覚がない惇子たちを見かねて、惇子の夫・通夫や父・八十八など、ビジネスが分かる4人の家族が経営面をサポートし、少しずつ経営は軌道に乗っていきました。
靴屋の片隅にオープンした当時の商品
(写真提供:ファミリア)
ファミリア誕生当時の神戸店<センター街店>
(写真提供:ファミリア)
1950年、惇子たちは靴屋の一角での店舗経営から卒業し、独立店舗を構え、「株式会社ファミリア」が誕生しました。「ファミリア」とは、フランス語で「家族」、英語で「より親しい」「家族的な」という意味。品質にこだわり、家族のための子ども服を作るという信念を表しています。
また、惇子たちの事業は家族の支えがあってこそ。その意味でも「ファミリア」はふさわしい名前です。折りに触れアドバイスをくれる、経営者の先輩である父や夫、また一人娘の存在は、「自分の子どもに作るような服を、使わせたい育児用品を」との思いをイメージさせてくれる、大切な存在でした。
その後も惇子は「自分の子どもに着せるつもりで良いものを」の信念を貫き、「ファミリア」の店舗は拡大して、今では日本を代表する子ども服ブランドに成長しました。ですが、もともとは仕立て代を現金でもらうことも躊躇したほどの、ごく普通の主婦たち。彼女たちが力を合わせ、好きだった洋裁の技術を活かした事業を成功させることができたのは、家族からのアドバイスを得ることができたからこそ、だったのかもしれません。
好きなことを思い切って仕事にした精神や行動力、家庭を大切にしながらの起業は、現代にも通じるもの。あなたにも好きなこと、貫きたいことがあるなら、まずは最初の第一歩を、思い切って踏み出してみましょう!